焼肉とコミュニケーション
焼肉は人とコミュニケーションするには向かないという説がある。 同席している相手よりも網のうえに置かれた肉の状態に気を遣ってしまうからだという。
これはある意味では正しいかもしれない。しかし、これは本当に幸福な焼肉体験をしていないのではいか、とも思える。
たしかに、つやつやふわふわのお肉を焼いているとき相手の顔をみて話すことは難しい。煙突も邪魔になる。
けれど、たとえばアジェには違う側面がある。
きれいなお肉に注目しながらも、自分たちで焼いた美味しいお肉を分けあって食べたり、初めてホソを見て不安になっている人に最高の状態のホソを食べてもらう喜びは出されたものを食べるだけの高級レストランでは味わえない感情だ。
これは恋愛でも同じであって、人間についての深い洞察をもつ山口貴由先生の言葉を引用してみる。
見つめあっている2人より、同じ方角を見つめている2人のほうがはるかに強く結ばれている。 (覚悟のススメ、巻末コメントより) *1
焼肉は長いバリューチェーンの最後に消費者として口をあけて待っているだけでは完成しない。われわれ消費者も参加することで完成するというこの焼肉という料理には力がある。美味しく牛を育てる畜産家、安全に気を遣いながらも熟練の技で解体する屠畜業者、鮮度を保って輸送する業者、早朝から仕込みをして肉にあわせて適切にカットして出してくれるマスター、そして、それを焼き網に捧げる我々がいて完成するのだ。 もちろん、これは狙ってやっているわけではない。価格や場所、肉を焼いてすぐ食べないと味が落ちるという制約のひとつの副産物でしかないのだろうけれど、これもまた魅力である。
こういった料理は、日本の鍋料理や、アメリカのBBQなどのようにコミュニケーションを創発する機能があるのではないかと思える*2。みんなで参加して、みんなでつくりあげて、みんなで食べることで一体感を得る。
こんなことを考えていると、内澤旬子の「世界屠畜紀行」を思い出した。モンゴルやイスラム世界では、祭りや節目に家で家畜をしめて解体して、みなで食べる文化があるという。これは家族総出の作業でたいへんなのだけれど、ご馳走の文化として描かれていたが、コミュニティの結束を強める効果もあるのかもしれない。非日常の、ややもすると残酷な作業を家族でこなし、おいしく味わう。形式だけではない本当の儀式。 これほどではなくとも、お店での焼肉はコミュニティを強めるためにうってつけなのではと思ったのだけれど、どうだろう。
世界屠畜紀行 THE WORLD’S SLAUGHTERHOUSE TOUR (角川文庫)
- 作者:内澤 旬子
- 発売日: 2011/05/22
- メディア: 文庫
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先日にアジェ北店に行ったばかりだというのに、たまたま別の友人から誘われてアジェ木屋町団栗店にいってしまった。この暑くなりかけるシーズンは誰もがアジェを望むのかもしれない。
アジェで満たされたあとに高瀬川沿いを歩いて帰るのも風が心地よくていい気分になる。
*1:http://d.hatena.ne.jp/hurricanemixer/20070320/1174401034
*2:もっとも、すき焼きやBBQは家庭内であれば家長が取り仕切ることが通例であり、文字通りのパターナリズムな権威を強化する要素も指摘はされているけれど