ホソの会 会報

あなたとホソ、いますぐアジェ

ホソ、あるいは哺乳類の臓物

ホソが美味しいのは間違いない。

ふるふるでふわふわのとろけるような食感、やさしい脂とタンパク質の旨み。火をまとった姿。はじめて見たときは鳥肌がたって、はじめて食べたときは体が溶けそうになった。

もちろん、そのふるふるの食感が苦手な人もいるかもしれないけれど、大多数の人は美味しいと感じるのではないだろうか。ベジタリアンやインド人にとっては背徳的でより甘美に感じられるかもしれないが推奨はしない。

ただ、はじめてホソを食べたときの歓喜の一部には、その味だけではなくその名前の影響もあるのかもしれないと思った。



「ホソ」


ホソを食べたことがないという不幸な、いやもしかするとこれからホソとの歓喜のファーストインパクトを控えた幸福な人間は、ホソという字面を見たりや音を聞いてどう感じるだろうか。

おそらく、非日常的ななにか、想像のつかなさを感じるのではないだろうか。ホソ・・・「ほぞを噛む」のほぞだろうか。つまり牛のおヘソかな?命がかたちになって最初に母体から栄養を受け取る場所。どんな味なんだろう。いや、もしかするとホヤみたいな見た目だからホソという名前なのかもしれない。ホヤも食べたことないどうしよう?けれど、なにやらおいしいらしい。想像のつかない見た目と味が気になりながらも期待が膨らんでいく・・・。ということになるかもしれない。


これを、たとえば、ホソではなく、小腸だよ、とか白くてブヨブヨした哺乳類の臓物だよと伝えられるとグロテスクな印象を受けたり、癖のあるホルモンの一種だろうか、と悪い先入観を生んで、食べたときにもその悪い先入観に引きずられたりしないだろうか。


先入観は、脳が効率的な情報処理をするための優れた機能ではあるけれど、よく知られているように視野狭窄固定観念を生みかねない。


先入観はその実際の効用に影響する。期待値が低い中で実際にすぐれているものがあると喜びにもつながったり、逆に期待値が高すぎると、そこそこよくても落胆してしまうのは人間の性ではある。民主党政権は期待されていた分だけより憎まれているし、映画「プロメテウス」は予告はなかなかおもしろそうであったにもかかわらずのあの内容でいまだに悲しみの傷が残っている。アニメ「スタードライバー」は南国ラブコメロボットものだよ、と聞いてまったく期待していなかったけれど、友人が1.5倍再生で観ているのを横で眺めているとかなりおもしろくて、後で見返したりもしつつ自分の不明を恥じ、はじめからおもしろいよ!と聞かされているよりも新鮮に楽しめたように思える。


このように先入観とのギャップは効用に影響する。ただ、そのなかでも特に、感覚と心身の状態に左右されがちな敏感で繊細な味覚は、先入観によって実際の効用が大きく左右されてしまうように思うのだ。あまり美味しくなさそうと思って食べると、思ったよりも美味しくてもなかなか先入観をぬぐえないし、期待は味をより美味しくする。つまり、名前はただの記号ではなく、味を構成する重要な一部。言い換えると、味というのはひとつのコンテンツではなく、コンテクストとしてとらえる必要がある。



当然ながらコンテクストを形成するものには名前以外にも重要な要素はたくさんある。


雰囲気のいい街にあるほっとするような店構え、わくわくするような店内の装飾、どきどきするような相手、シェフの笑顔、ストーリーのある店名や食材、レシピ、目覚めの時に見つめる掌、幼かった頃の記憶、未来への予感・・・それだけじゃない。私がアクセスできる膨大な外部情報や食卓の広がり、それら全てが<味>の一部であり、<味>という存在そのものを生み出し・・・そして、同時に<味>をある限界に制約しつづける・・・*1




人生の短さに比して料理の道は深い。我々は己と向き合うためにまだまだアジェに行くことになりそうだ。


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ホソの会ではともにホソの歓びを求める人間や意欲あるコンテクストの探究者を求めています。

ジョイナス

*1:元ネタは押井守攻殻機動隊での少佐のセリフ